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創業明治12年。
今なお私たちの中に息づく理念と
価値観の原点を振り返る。

株式会社ホッタは明治12年(1879年)の創業以来「誠心誠意」を経営理念として掲げてきました。

「本物の感動」をお客様へとお届けしたい。
まっすぐで変わらない想いが、わたしたちの奥底に流れ続けています。

どんなに時代が変わろうとも、この原点が揺らぐことはありません。

真心を込めたその先に、笑顔があると信じて。

これからも株式会社ホッタは「誠心誠意」を胸に刻み、お客様の感動とともに未来を歩んでいきます。

1879明治12年
  • 初代 堀田良助 名古屋で時計卸・小売商を創業
文明開化を駆け抜けた創業者
堀田家は代々、織田家や豊臣家と縁のある愛知県・津島神社の神官を務めてきた。その四代目として誕生したのが、創業者の堀田良助である。天保2年(1831年)に生まれ、20代から30代にかけて幕末の動乱を経験。封建社会の制度や習慣の衰退、「文明開化」と呼ばれる新時代の幕開けを全身で味わった。
現代風に言えば、起業家精神旺盛な人物だったのだろう。良助は神職を受け継いだものの、時代の荒波を好機と捉え、数々の商売を立ち上げている。いずれも失敗に終わったが、それでもなお諦めず、文明開化の花形商品「時計」に活路を見い出す。明治6年(1873年)に西洋各国に準じるかたちで太陽暦が採用され、「1日24時間」という新たな暮らしが始まっていたのだ。
その翌年、良助は名古屋随一の時計卸・小売商だった林市兵衛商店に入店。一から修行を積み、5年後に長者町で独立を果たした。この時、良助は47歳。当時の平均寿命が43歳ほどだと考えると、その情熱が並々ならぬものだったことが窺える。当時、時計は海外からの輸入に頼るほかなく、仕入れの際には横浜の商館まで足を伸ばす必要があった。当然、汽車などあるはずもない。人力車を乗り継ぎ、時計を担いで東海道300kmを行脚したという。
1883明治16年
  • 鉄砲町に店舗を移転
1895明治28年
  • 新築の店舗の屋根に時計塔を設置
1897明治30年
  • 米国アンソニア、アイゼキ両社より8日巻掛時計機械を輸入し、
    自家製ケースに組み立て販売
安価で高精度な、日本初の時計を
創業の苦難を乗り越え、良助は徐々に事業の礎を築き上げていく。明治16年(1883年)に名古屋市の一等地である鉄砲町に店舗を移転。明治28年(1895年)には土蔵造総二階に建て替え、屋上の時計塔に高名な時計師の作品「四方時計」を設置した。国産の時計塔は非常に珍しく、名古屋名物として話題を呼んだ。
一躍、「堀田時計店」の名を世間に知らしめたのが、良助発案の「オリジナル時計」である。当時、輸入掛時計は非常に価格が高く、国産掛時計は非常に精度が低かった。「日本に安価で高精度の時計を」という想いもあったのだろう。明治30年(1897年)、良助は自家製の外装と、海外製の機械を融合。業界初となる新製品は好評を博し、西洋式時計の普及を一気に加速した。
明治38年(1905年)、良助は74歳で眠りにつく。厳格・几帳面な性格だったと言われるが、その一方で俳句を愛し、俳号「一声」としての顔も持ち合わせていた。辞世の句は、「かぎりなき 世は面白し 月と花」。幾度となく失敗しながらも大志を貫徹した、良助らしい歌である。
1905明治38年
  • 堀田末次郎 二代目良助を襲名
1924大正13年
  • 東京出張所開設
  • 堀田芳雄 三代目良助を襲名
1928昭和3年
  • 堀田六造 三代目を継承
現代に続く、創意工夫の信念
第一次世界大戦、関東大震災、為替相場の下落。日本は長引く不況に喘ぎ、市場も不安定な状況に陥っていた。二代目良助の弟である六造も被災し、東京で営んでいた骨董商「三登茂」をたたみ名古屋末広町に帰郷。三代目良助の早期引退を受け、昭和3年(1928年)に家業である時計卸・小売商を継承した。
時代背景を踏まえれば、豪胆な人物だったのだろう。「当面の不況はやむなし」とも言える情勢のなか、六造は大胆な宣伝手法を次々と生み出す。新聞社がセスナ機を購入したと聞けば、自ら搭乗して宣伝ビラを上空から散布。サーカスが名古屋に来ると聞けば、象の背中に広告幕をかけて市内を練り歩かせた。
特に逸話として残るのは、セスナ機のアイデアである。「時計は瑞西(スイス)、買うなら堀田」の一字一字を印刷した計11色のビラを散布し、業界では異例とも言える新聞全面広告で『全種を揃えた方に時計を無料で進呈する』と豪語。当日は、広告を知る者も知らざる者も市街を錯綜したと言う。その光景はさらなる話題を呼び、「堀田時計店」の名は東海地方の子どもにまで広く知れわたることとなった。
連日、500個超の時計を販売したと言われる六造は、アイデアマンとしてホッタの歴史にその名を刻む。「遊び人であった」と後世に伝えられるが、彼の楽観主義は「どんな状況もアイデア次第で変えられる」という信念の裏返しなのだろう。三代目の精神は現代にも受け継がれ、今もなお「創意工夫」としてホッタの重要な価値観のひとつに掲げられている。
1935昭和10年
  • 六造 引退
  • 堀田良平 四代目を継承
1938昭和13年
  • 四代目の応召により堀田時計店休業
1946昭和21年
  • 四代目復員・帰国
1947昭和22年
  • 戦後再建、時計卸商 堀田良平商店として再発足
誠心誠意を重んじた中興の祖
敗戦後、良平はタイで捕虜になった。帰国したのは、終戦の10ヵ月後。家族と無事に再会できたときには、大戦中に生まれた長男・邦彦が2歳になっていた。親交のあった画家の寄稿には「捕虜生活に苦しみ体が大分衰弱している様なので 私は当分静養を勧めた」との記述があるが、良平は「一日遅れれば千日の悔をのこす」と家業の再建に着手。寝食を忘れて働き、昭和22年(1947年)には時計卸商・堀田良平商店を発足させている。
驚くことに、良平は戦後を好機と捉えていた。当時は未曾有の物不足である。時計を売ろうにも商品がなく、加えて仕入値は年間2倍以上の速度で跳ね上がっていた。ただ、名古屋は時計の一大産地である。老舗である堀田であれば、商品は手に入りやすい。良平は「今なら有名店とも取引可能だ」と営業体制を強化し、販売網を全国に拡大。歴史的に見れば、地方の一卸商が日本中の有力時計店と取引できる絶好の機会はこの瞬間のみであった。
同時期に、良平はオリジナル掛時計「クラウンファン」の開発にも着手。新製品は瞬く間に評判を生み、日本全国に「(株)堀田時計店」の名を轟かせることになる。昭和25年(1950年)には、東京で年末謝恩大展示即売会を開催。腕時計・置時計等が一堂に介する機会は希少だったため、得意先のみならず数多くの小売商の好評を博した。
戦後、迅速に事業を再建した良平。しかし、どんな状況にあっても、製品の品質には一切の妥協を許さなかったと言われている。丁寧な検品を怠ることはなく、「高精度のものしか売らない」という信念が取引先からの厚い信頼を獲得したのだ。株式会社ホッタの中興の祖として知られる良平だが、創業の理念である「誠心誠意」を貫き通した人物でもあった。
1948昭和23年
  • (株)堀田時計店に組織変更
  • 東京店を東京都中央区に開設
1949昭和24年
  • 東京店を東京都台東区上野に移転
1950昭和25年
  • 貿易部新設
  • 第1回年末謝恩大展示即売会を開催
1951昭和26年
  • 本社を名古屋市中区錦に新築移転
1952昭和27年
  • スイス エレクション社と総代理店契約締結
1953昭和28年
  • スイス オーデマ・ピゲ社と日本代理店契約締結
1955昭和30年
  • 優良問屋として中小企業庁長官表彰受賞
1957昭和32年
  • 卸末広会 発足
  • 輸出用トラベルクロックを開発、当社の対米輸出の基盤確立
1958昭和33年
  • 店主経営ゼミナール開始
小売店の繁栄なくして問屋の繁栄なし
昭和31年(1956年)、経済白書で「もはや戦後ではない」ことが高らかと宣言された。時は、神武景気の真っただ中である。このフレーズは流行語となり、白黒テレビをはじめとする「三種の神器」が注目を集めるようになる。昭和33年(1958年)に東京タワーが完成したことを踏まえると、日本中が空前の経済成長に沸いていたことは想像に難くない。
堀田時計店もまた、シチズンの有力代理店として国内に盤石の販売網を築き上げていた。しかし、良平は有史以来の好景気に浮かれることなく、当時としては非常に珍しかった取引先への教育サービスを開始。昭和33年(1958年)に小売業者を対象とした勉強会「店主経営ゼミナール」を開始し、昭和34年(1959年)には経営者の配偶者を対象とした「主婦ゼミナール」も開始している。
今でこそ「Win-Win」の重要性を認識する経営者は多い。高度経済成長期の負の側面が露見する一方で、良平は「小売店の繁栄なくして問屋の繁栄なし」を信念としていた。堀田時計店100周年誌には、「現社長は、卸売業者として、小売店に対する理想的な在り方を追求した」との記述が残っている。
1959昭和34年
  • 本社業務を名古屋本社から東京店に移行
  • 主婦ゼミナール開始(のちのホッタミセス会)
1960昭和35年
  • 明豊時計(株)を吸収合併 大阪店開設
1962昭和37年
  • 宝石部新設
1963昭和38年
  • スイス ビューシェ・ジロー社と日本総代理店契約を締結
  • 系列会社パブリカ足立(株)を設立(のちのトヨタカローラ足立(株))
  • 第1回ホッタパーティ 欧州時計業界を視察
1964昭和39年
  • 32日間世界一周旅行
次代を見据えた先見の明
四代目の良平は、海外ブランドとの提携にも力を注いだ人物だった。昭和27年(1952年)にスイスのエレクション社と総代理店契約を締結。翌年、同社に招待されたことを端緒に、2ヵ月ものあいだスイス、西ドイツ、フランス等の西欧諸国で精力的な商談を行っている。当時、一般の海外渡航は認められておらず、業界人としては数人目の海外出張経験者だった。
昭和32年(1957年)には、東南アジアと欧米10ヵ国の商況を視察。詳細は定かではないが、この時すでにロレックス社と何らかの取引を行っていたようである。現在に、ハンス・ウイルスドルフ社長と良平が腕を組む写真が伝えられている。帰国後、四代目は至難の技と言われた、国産の旅行用小型常設時計を開発。アメリカ進出の基盤を確立した。
昭和39年(1964年)に一般人の海外渡航が解禁となった際には、第1回目となる世界一周旅行を企画。取引先31名とドイツや北極、アラスカ、ヨーロッパ、アメリカを巡歴した。写真には、ロレックス社の新工場見学後に参加した歓迎パーティーの様子が記録されている。この前例なき海外視察は、最終的に第25回にまで及んだ。
良平は海外渡航で得た知見から、大都市で高い需要を誇っていた高級時計に着目。昭和42年(1967年)に独占的な拡販を目的として「日本タイマート株式会社」を設立し、スイス製宝飾時計の「コルム」、フランスファッションウオッチ「エルメス」などのブランドと日本総代理店契約を締結している。
1971昭和46年
  • ホッタビルを東京都台東区に竣工
1979昭和54年
  • 創業100周年記念式典 挙行
  • 三代目 堀田八二朗 自伝「風流時圭男」発刊
1981昭和56年
  • 系列会社ホッタ・ゼイルコーポレーションを米国ゼイル社と合弁で設立
1985昭和60年
  • (株)堀田時計店から(株)ホッタに社名変更
1987昭和62年
  • 堀田邦彦が五代目継承
時計の卸から、時の専門商社へ
長年の功績が称えられ、藍綬褒章を授与された良平。その先見の明は時計に留まらず、日本経済の発展とともに宝飾事業、自動車販売会社などを立ち上げ、この国の豊かな暮らしを支え続けた。昭和62年(1987年)に多角化した事業を分社し、堀田邦彦に「ホッタ」「ホッタタイム」「ホッタ宝飾」「ホッタインターナショナル」の社長の任を譲った。
四代目の良平が中興の祖であるなら、五代目の邦彦は様々な事業を立ち上げた挑戦者と言えるだろう。昭和56年(1981年)頃から海外ブランドが直営店方式を採用するようになり、国内メーカーも小売店へ直販するようになっていった。日本でも流通革命の時代に入り、卸売業者を排除したサプライチェーンが確立されるようになる。
就任後、腕時計や結婚指輪などのオリジナルブランドの開発、海外ブランドの開拓・買付などを精力的に行っている。バブル崩壊後も挑戦の手を緩めることなく、当時としては珍しかったブライダルジュエリーのセレクトショップ「アンジュ ベェルビー」を開業。全国4店舗へと拡大させている。
日本が豊かになるにつれ、人々がモノではなく体験価値を求めるようになると考えていたのだろう。邦彦はホッタ小史のなかで「時計や宝飾というハードを超え、人々に豊かな‶時〟を提供する専門商社をめざしていきたい」という旨を語っている。「ホッタは世の中に何を提供できるか?」邦彦の問いは、現在のVision「記憶に残る感動を、ともに」のなかに確かに息づいている。
  • (株)ホッタを4社に分社化
  • (株)ホッタタイム、(株)ホッタ宝飾、(株)ホッタインターナショナルを設立
  • (株)ホッタ・ゼイルコーポレーションを(株)ポンテヴェキオホッタに社名変更
1990平成2年
  • ホッタの戦後史「ホッタ小史」発刊
1993平成5年
  • ソナーレ販売開始
1995平成7年
  • 名古屋にブライダル専門店「アンジュ ベェルビー」1号店オープン
1997平成9年
  • スイス ポールピコ社と日本総代理店契約締結
  • 大阪にブライダル専門店「アンジュ ベェルビー」2号店オープン
1998平成10年
  • 南青山に「リストランテ カ・アンジェリ」オープン
  • 東京本社ビルの屋上を緑化、電光時計設置
  • トヨタカローラ足立(株)をホッタグループより分離
1999平成11年
  • イタリアのピエログイディ社と合弁でピエログイディジャパン(株)を設立
  • (株)ポンテヴェキオホッタを分離独立
2000平成12年
  • 銀座に「アンジュ ベェルビー」3号店オープン
2001平成13年
  • ホッタタイムをホッタグループより分離独立
  • ホッタ宝飾、ホッタインターナショナルを吸収合併
2002平成14年
  • 東京銀座にロレックス正規品専門店「レキシア銀座」オープン
2003平成15年
  • スイス フォルティス社と日本総代理店契約を締結
2004平成16年
  • 堀田峰明 社長就任
変わるものと、変わらないもの
平成14年(2002年)、邦彦はロレックスの正規品のみを取り扱う「レキシア銀座」を開店。翌々年、自身は会長に就任し、堀田峰明に「小売拡大」の夢を託した。五代目の邦彦の種まきが功を奏し、六代目の峰明は「レキシア銀座」を名古屋、大阪の一等地に出店。東京の店舗も移転し、銀座並木通り本店として拡大オープンさせている。
平成19年(2007年)、峰明は本社を御徒町から銀座に移転。「卸の街」から「小売りの街」へと舞台を変え、平成23年(2011年)には三越日本橋本店、伊勢丹新宿本店のロレックス売場の運営を開始。全国の百貨店へ拠点を展開していく。
店舗数の増加にともない、平成26年(2014年)には16年ぶりとなる新卒採用を再開。その後も「ロレックス ブティック レキシア GINZA SIX 店」の新店オープン、「ロレックス ブティック レキシア 銀座並木通り本店」の移転拡大と精力的に事業を拡大させ、令和3年(2021年)にはドイツのジュエリーブランド「アクレード」の日本初の旗艦店をオープンさせている。
戦後再建75周年を迎える令和4年(2022年)。六代目の峰明は、五代目の夢を実現しつつある。歴代の社長と同じく、峰明もまたリーマンショックやコロナ禍という危機を乗り越えてきた。卸売業から小売業へと舵を取るなかで、変えなければならなかったこともある。だが、どんなにかたちが変わっても、株式会社ホッタは「誠心誠意」「創意工夫」を忘れずにこれからも歩みを進めていく。
  • 堀田邦彦 会長に就任
  • 創業125周年感謝の集い 挙行 於ホテルニューオータニ
  • 輸入マリッジリング「ユーロウエディングバンド」を販売開始
2005平成17年
  • 名古屋に「レキシア銀座 栄ラシック店」オープン
  • 銀座に「レキシア銀座 並木通り本店」オープン
  • 大阪に「レキシア銀座 心斎橋店」オープン
2006平成18年
  • (株)ホッタインターナショナルを設立
2007平成19年
  • 本社を東京都中央区銀座に移転
  • 戦後再建60周年を記念して、社業の歩みをモチーフとした小説 「風流時圭男」 を発刊
2009平成21年
  • 岐阜県白川町にて創業130周年記念植樹会 挙行
  • (株)ホッタインターナショナル、ドイツ ジン スペツィアルウーレン社と
    Sinnブランドの日本における総代理店契約を締結
2010平成22年
  • 旧ホッタビル跡地にスーパーホテル上野・御徒町を竣工
2011平成23年
  • 三越日本橋本店、伊勢丹新宿店のロレックス売場運営をスタート
2013平成25年
  • 新潟三越 宝飾・時計サロンの売場運営をスタート
2014平成26年
  • 札幌三越、名古屋栄三越、伊勢丹相模原店、伊勢丹浦和店、広島福屋八丁堀本店のロレックス売場運営をスタート
2015平成27年
  • 大和香林坊店、銀座三越、高松三越のロレックス売場運営をスタート
2016平成28年
  • 東急渋谷本店のロレックス売場運営をスタート
2017平成29年
  • 「ロレックス ブティック レキシア GINZA SIX 店」オープン
  • 「ロレックス ブティック レキシア 銀座並木通り本店」移転、拡大オープン
2018平成30年
  • TUDOR(チューダー)日本再上陸第1号店を伊勢丹新宿にオープン
2019令和元年
  • TUDOR日本初の旗艦店「チューダー ブティック 銀座」オープン
2020令和2年
  • 新潟伊勢丹のロレックス売場運営をスタート
  • 「ロレックス ブティック レキシア 名古屋栄店」 移転、拡大オープン
2021令和3年
  • 新経営理念策定
  • 本社を東京都中央区築地に移転
  • ドイツ発ジュエリーブランド acredo、日本初の旗艦店「アクレード銀座」オープン
  • 「ロレックス ブティック レキシア 大阪心斎橋店」拡大オープン
  • 「チューダー ブティック BOLTE銀座」移転、拡大オープン
2022令和4年
  • 丸井今井札幌本店のロレックス売場運営をスタート
  • 「ロレックス ブティック レキシア金沢香林坊店」オープン
2023令和5年
  • 「ロレックス ブティック レキシア 新宿店」 オープン
2024令和6年
  • 「ロレックス ブティック レキシア 銀座本店」 オープン
  • 「チューダー ブティック BOLTE名古屋」 オープン
2025令和7年
  • 「チューダー ブティック BOLTE札幌」オープン